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沿革/活動報告

概要

丸紅は1949年12月1日に大建産業が丸紅、伊藤忠商事、呉羽紡績、尼崎製釘所の4社に分割されたことにより設立された。本社は大阪に置かれた。1955年9月高島屋飯田と合併、社名を丸紅飯田とした。このとき東京においては高島屋飯田にコーラス部が存在し、それを引き継ぐ形で丸紅飯田のコーラス部になった。ところが自然消滅してしまい、新たに現在の合唱団の前身であるコーラス部が1959年頃に発足した。 当初は、団内(社員)の指揮者で、団長もおかず合議制で運営していたようである。

団長を置いて組織的に活動を始めたのは、1964年4月からで、同時期に外部から指揮者を招聘し1964年6月からスタートした。1966年丸紅飯田は東通と合併し、同社にも合唱団が存在していたが、わずか1名の参加を見るにとどまった。この合併に伴い事務所は、大手町ビルと須田町分館の2箇所に別れることになった。

一方、丸紅飯田の東京には、日本橋支店という組織があり、その中にも1960年代前半より女声合唱団が存在していたが1967年活動を停止することになった。そこで団員をこの合唱団に取り込むことになり、数名が参加することになった。 これで合唱団の枠組みが決定し、現在に至っている。

練習方法

発足時には、ピアノが無かったので、音取りは音叉で行っていたが、高度な技術が必要で、効率も悪かった。1965年に「ピアニカ(鍵盤ハーモニカ)」を購入し、若干改善された。そして1967年、現在も使用しているグランドピアノを購入し、現在の練習方法になった。

練習時間

発足時、練習は昼休みに行っていた。昼食後の30分が練習に当てられていたようである。週1、2回、団内指揮者の都合に合わせ不定期に行っていたが、1964年6月、指揮者を招聘したことにより、毎週1回定期的に行う現行制度となった。

1965年1月、昼休みの練習では、満足な練習が出来ないということで、終業後に変更し、現在に至っている。時間については、当初は17:30〜20:00(途中休憩及び連絡30分)であったが、定刻に集まる人がだんだん少なくなったことと、練習場所への移動時間が必要な事(後述)から18:00〜20:00(途中休憩なし)という形に変わった。

そして、完全5日制導入に伴い終業時刻が17:30になったことで現在の18:30〜20:30(途中休憩なし)となったものである。

曜日に関しては、月曜日から金曜日までのいずれかであるが、その都度指揮者と相談しながら決定している。現在の練習日である月曜日になったのは1993年1月からである。

練習場所

当初は丸紅の事務所が大手町ビルにあったので、そこで行われていたが、講堂も、相互会室も無かったので、練習が昼休みだった時期は階段の踊り場とか、屋上で行われていた。練習が終業後になってからは、空いている会議室を探してきて、そこで行った。(主に第3又は第4会議室)

そしてピアノが設置された段階で、このピアノを大手町ビルに置くことが出来なかったので、須田町分館の食堂に置くことになり、そこで練習することになった。ところが当時の団員は殆どが大手町ビルに居り、彼らが移動するのに約30分が必要で、その到着を待ってから練習を始めることになったのである。1972年1月現在の丸紅本社ビルに事務所を移転したのと同時に社名を丸紅飯田から丸紅に戻した。この際ピアノを講堂に移動し、現在のように練習を講堂で行うことになった。講堂が会社都合で使用不能の場合は、電子ピアノを置いてある相互会室にて行っていたが、だんだん部員が増加し団員が入りきれなくなったので、2003年からは電子ピアノを地下食堂に移動して行っている。

合唱団の名称

(1)丸紅飯田東京支社コーラス部・・・発足時
(2)丸紅飯田コーラス部・・・1966年東京が本社になった事による変更
(3)丸紅コーラス部・・・1972年の社名変更による変更
(4)丸紅合唱団・・・コーラス部より合唱団の方がかっこいい?
(5)丸紅本社合唱団・・・変更理由、時期不詳

上記のように変遷している。現在の名称が30年以上定着しているのは事実。本当は丸紅混声合唱団という名称にしたかったのに大阪の合唱団がこの名称を使用しているため、 仕方なくこの名称になったのかも。これとて丸紅の登記上の本社は大阪なので何となくなじめなかったが、現在は登記上の本社も東京になったので、相応しい名称になったと言える。

団員及び人数

職場の合唱団であるから、丸紅の社員だけで構成するのが本来であるが、指揮者を招聘するようになってからは、この原則が崩れた。沖電気工業、住友商事、安田火災海上(現・損保ジャパン)等の合唱団から数名の助っ人を受け入れていた時期もあった。現在は、社員以外には、事業会社社員、当社OB、その縁故者などにより構成されており、正社員の方が少ないこと御承知の通りである。

人数は時期と活動状況により大きく変動しており、一番少ないときは、1989年から1995年頃までで何かイベントがあると10名を越えるが毎回の練習の出席者が10名を越える事が滅多にないという状況であった。特にひどかったのは1990年で、年間50回近くある練習のうち、出席者少数のため練習中止ということがなんと11回もあったのである。

2003年くらいまでは、平均的にみれば、団員数30名前後の混声合唱団であった。人数としてのピークは2度あり、最初が1977年頃の45名、次に2001〜2003年にかけてであった。なかなか50名を超えられなかったのだが、2002年ついに50名を突破した。以後徐々に増え続け、2009年には60名を突破し、62名となった。